2014年04月02日

生きてみようかな

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4月1日(火)

山本周五郎の名言をまとめたもので「泣き言は言わない」と言う本がある。
周五郎作品の中の光り輝く名言を網羅した、バイブル的要素のある、ファンにとってはタマラナイ一冊なのである。
ごく若い頃、ワタシはその本を手にし、繰り返し読んでは逐一ジーンと感動し続けた。

ワタシは不精な人間であり、極度のナマケモノである。
努力している人間にいつも憧れ、自分もそうありたいと願いつつ、やはり怠け者だから、俺はそうじゃナインダヨナ、ダメな野郎なんだよなと頭を抱えていた。

元々テメエには努力に値する才能もないではナイカというコンプレックスと諦めとが入り交じり、そうした本を読むことによって、なんか自分も苦悩して努力してるんダヨナという錯覚を起こしていた。随分と自分をごまかして生きてきたように思う。困難を克服すべき行動をいつも棚上げし、保留して生きてきたワケだ。

ライブ活動をずずらべったら続ける事で、自分は何かをやり続けているんだ、常に何かと戦い続けているんだ、と思いこもうとしていた。

ライブを観てくれた人から、いやはや角森さん、すげーパワーですね〜などと言って貰えると、小躍りして大喜びし、そうでっしゃろ、アンタわかってまんな、ワテは才能おまっしゃろと破顔して自足していた。

努力もせずカンタンにできる事をやってるだけなのに、そうした怠慢がお客さんにはバレてないんだってコトに安堵していた。

セコイ。充分にセコイメンタリティーだ。そして、ただそれだけが自分のすべてだったのではナイカと考える。

中二病も甚だしいコトをあえてネチネチと書き連ねてしまった。前フリとして必要だったから書いたけど、やっぱチョットしんどい。当然のことながらハズカシイ。

それでもワタシは書きたかった。

「身も心も音楽に捧げる生き方とはいったい何なんだろう?」

そう問いかけた時、答えは明白である。俺は答えを知っている。そして、それを実行していない野郎には、どんだけよいパフォーマンスをしても、真の充実感を得られないことも判っている。

「自分が使える時間のすべてを音楽に使う」

ただそれだけの事をやるかやらないかの問題だったノダ(やはり書いててハズカシイ…)。

死ぬ時に、悔いが残らぬよう、真っ白な灰になるように生きてーんダヨ、と思う。そのように思い定めて生きてみたい。ワタシの願いはただそれだけなのである。

言いたいことを言い、しがらみも何もカンケーねーぜ!とワイルドに生きるコトが悔いの残らぬ生き方ではナイ。ワタシにとってそれは違う。

自分にとって避けられないしがらみも、生きにくいルールも、ともに抱きかかえながら、いや、引きずられながら、それでも自分に残されている時間のすべてを音楽に使いたい。今ふたたびそのように生きてみたい。そう願わずにはいられなくなった。

本来こうしたコトは書くべきではナイ。心にしまって不言実行するのがオトコのあるべき姿だ。
そうではあるが、俺は普段のテンダーな言動や立ち振る舞いから、今だオカマ疑惑が消えないし、それ以前にどうしようもないミソッカスのかまってちゃんだから、ついついこの紙面を借りてボヤかずにはいられなかったのだ。でも真実はトテツモナイ性欲を誇る超女好きなド中年だ。リビドーロックの体現者なのだ。とにかく一生懸命、大汗かいて生きてみたいノダ。

要するにヒマな時間をマスターベーションにばかり使うべきではナイと自分に言い聞かせている。
若い頃は全裸でブリッジしながらノッシノッシと歩きオナニーなんてモノにも耽溺していた。自部屋だけでは飽き足らず、町内をもその姿勢で練り歩いた。新たな快楽を求める探求心を失わなかった。しかし今はもうそんなモチベーションはなくなってしまった。おぞましいホラーでしかない人生には疲れてしまったのだ。

強く強く失わず持ち続けるモチベーションは、唯一ロックンロールだけだ。それだけは絶対誰にも負けない。内田裕也以外には誰にも負けない。

だからこそ自分にとっての最後の砦を大切にしたい。そして絶対に「勝ちたい」と願っているのだ。

すべての時間をロックンロールしたい。自分はそのために生まれてきたのだ。
そんな取り返しのつかないバカげた思い込みを、今宵ワタシは取り戻した。

全裸でブリッジしながら、強く確信している丑三つ時なのである。
posted by ツリー at 03:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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